私が株に興味持ったのは、1987年2月9日に上場したNTT株のIPOからです。
当時IPOという言葉は使われていなかったように思います。 超大型上場で、
異例の東証1部一発上場と、新聞の社会面まで大騒ぎだった記憶があります。
公募価格の決定はBB方式ではなく、定かでありませんが、機関投資家とか大口が入札。
その落札価格の平均値で、公募価格が決まったように記憶しています。
今まで株に全く興味を持たなかった人まで日本国中、この話題で持ちきりになりました。
私も野村證券に応募しましたが、あえなく落選でした。
今から思えば、当時から野村は裁量配分だったのかも知れません。
NTT株は公募119万円ほど、初値140万円前後だったと思います。
その後も順調に値上がりしていきました。
日経平均も、年初の19,000円から秋口には26,000円まで上昇し、順調そのものでした。
NYダウも、年初1,800ドルから2,700ドルまで順調に値上がりしていました。
そんな中、1987年10月19日、突然襲ったのがブラックマンデーです。
NYダウは1,700ドルまで、日経平均も21,000円まで急落です。
NYがブラックマンデーに襲われた翌朝の東証、ほとんどの銘柄は売り気配のまま、
値がつかずに終わったように思います。
私の20年の記憶でも、この暴落は短期で最大の下げ、まさにパニックだったと思います。
しかし、この状況下で、いち早く回復したのが東京マーケットでした。
1988年4月には、ブラックマンデー前の26,000円を奪回、新高値を更新していきました。
ニューヨークといえば、2,000ドル前後で低迷したままで、2,700ドルに戻るまで
2年かかりました。
当時のわが国の勢いと、ジャパンマネーのすごさを物語るものです。
振り返ると、それがバブルそのものだったのですが・・・・・
で、NTT株はといえば、1年越しの大フィーバーがいまだ継続。
1988年7月には250万円の高値をつけました。
高値で売り抜けて、利益で高級国産車を買ったという自慢話も耳にしました。
そのNTT株、250万円をピークに急に下がってくるではありませんか。
何も株の知識のない私、これは割安だと思い、1988年11月9日
野村證券でNTT1株を180万円で買いました。
当時はネット売買なんてない時代、手数料は2万円丁度でした。
これが私の株式投資のはじまりです。
ところが、その後のNTT株、下がるは!下がるは!!
さらに、1990年初頭からバブル崩壊、その夏のフセインショック、
一直線の下げです。
その間、私は損切りもできず、NTTを3株ナンピン買い。
さらに、富士通、大林組とかも買ってしまいました。
しかし、1991年春の湾岸戦争終結で一旦戻したものの、その後も、
住専の破綻、不良債権の飛ばしの発覚とか悪材料続出。
とうとう1992年6月には、NTT株が60万円を割りこみました。
4年で1/3に下落です。株の怖さが身に沁みました。
日経平均も3年足らずで、ピーク39,000円から14,000円まで
下がってしまいました。
最悪時、NTT4株だけで含み損が300万円。
他の株を含めると500万円の含み損を抱えてしまいました。
ホント、目の前が真っ暗になりました。
この頃、私の周囲で、バブルに乗じて大儲けして有頂天になり、
「わしは株の名人」とか自負していたが全財産を使い果たし、
何人も株の世界から去っていくのを、目の当たりにしました。
身近に、1億円が1年で300万円になった人もいました。
現物でスタートしたものの下がる一方、やむなく信用取引で買い増すも、
さらに損失が膨らみ、ついに精算という典型的なパターンでした。
後から冷静に見れば、なぜ早期損切りをしなかったのかと思いますが、
当人は最後まで、強烈なリバウンドがあることを信じていたようです。
私も大きな塩漬け株を抱えましたが、信用取引に手を出していませんでした。
ただ、首をすくめているだけでしたが、それで救われました。
まだ若かったし、毎月の給与収入もあったので、10年塩漬けでもよいという思いでした。
そして、信用取引で退場する人を見て、「
信用取引には絶対手を出さない」と
自らに誓いました。
当時と違い、最近のように取引手法が進歩すると、信用取引も有効な手段だと思います。
でも、私は頑なに、今でもその誓いを守っています。
さて、500万円の含み損がその後どうなったかは、日を改めて記事にしたいと思います。